白い雑音
黄夢圓
ザー。ザーザーザーザーザー。
サー、ザーザーーーーザーーーーー。
サーーーーー…
夜遅く帰路につく電車の中でうたた寝しているような。
夢の深淵に吸い込まれるほんの1秒前にいるような。
記憶彼方の母親のお腹の中でうずくまっているような。
ホワイトノイズの音である。
イによる表現で言えば、ホワイトノイズとは心地よい雑音のことだという。
雑音でありながらも、他の雑音を掻き消し、どこか癒しをもたらす。
白い雑音。
白い、雑音。
白い、とは無彩である。
白は、近代以降、作品の自律性を強く保ちながら、ニュートラルな鑑賞が提示できる空間に使用する色として、美術壇でその確固たる地位を築いてきた。
ホワイトキューブの色である。
作品が作品であれるよう、作品が作品でしかなくなるよう、白は無であることを徹底してきた。
だが、イの作品において、白は決して無ではない。
いや、無であるがゆえに、有となっているというべきだろうか。
イの作品において、白には時間が宿っている。
その白は紙の本来の色として、ある種余白を象徴するとともに、新たな空間でもある。
そしてその新たな空間は、我々が立つ“いまここ”と地続きになっている。
“いまここ”でしか立ち会えない空間が、イの作品における白である。
そして「ホワイトノイズ」の空間は、白く、ない。
ホワイトキューブではない。
床は茶色く、天井はところどころ砂色であったり、模様がついていたりする。
少々のほこりを被り、本来の色に霞がかかっているところもある。
ここは、白くない。
ここは、作品が作品でしかなくなるよう、白が無であることを徹底していない。
畳のい草色の上に置かれた≪layered≫とキッチンの無機質なステンレスにまとわりつく白い≪lines #1楮≫。そして数多の時間を吸い込んできたであろう押し入れには白い《旅人》、無数の時間が宿る紙がイの身体性をもって、紡ぎ合わされ、新たな空間となっている。
全ての色がそれぞれの意味を持って、“いまここ”をつくり出す。
そして、どこからともなく聞こえてくる音楽は、我々が空間内を歩き回る足音や我々の息の音、窓のガラスを隔てて聞こえてくる街の音と重なり合い、“ノイズ”となる。
奇妙な音の重なり合いは、どこからがどこまでが小川町に元あったもので、どこからどこまでが新参者であるイの作品なのか、わからなくさせる。
その戸惑いは、2階への階段を踏み締めるにつれ、どんどんと強くなる。
我々が2階に足を踏みいれると同時に、わずかな空気の動きに反応して揺れる≪sequence #white≫。
窓から射す“いまここ”にしかない光に照らされながら、静かだが大胆にもその姿をさらけ出す≪sequence #white≫は、白い。格段に白い。
その白は、“いまここ”に我々が見る白が儚く見えてくるくらいに白い。
その白は、全てを呑みこみ、全てを吸い取って、白くはなくなるかもしれない。
その白は、それとしての独自の時間を孕みながら、我々がいる“いまここ”に流れる時間をも宿していく。
我々はいま、ここに、何を見にきたのか。
踵を返して階段を下れば、窓から射す光も、階段と靴下が擦り合う音も、部屋の隅に静かにたまるほこりも、ふと見上げた天井の見知らぬ模様も、そしてその視線の奥に見えるイの作品も、いやはや窓の外に広がるいつもの小川町の街並みも…
その全てがさっきとは違って見える。
だって、“いまここ”は移り変わるから。
イが作り出したのは、《》がつく作品らだけではない。
“いまここ”という時間と空間全てが、彼女の織りなす作品であり、我々と地続きでありながら現実ではない新たな時空なのである…
近現代美術の観点から言えば、ここはノイズだらけだ。
だが、その全てが重なり合わさった時…
ザー。ザーザーザーザーザー。
サー、ザーザーーーーザーーーーー。
サーーーーー…
心地よいホワイトノイズとなる。